からくり人形
下門区八幡車のからくり人形は、区の氏神である「八幡社」とのつながりの上に成り立っています。
すなわち、八幡社の祭神「八幡神」は全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた
誉田別命(ほんだわけのみこと)、後の応神天皇であります。
そして、八幡車の前壇で操られるからくり人形こそ、その「応神天皇」なのです。
また、上山高欄で舞う女性は、母である「神功皇后」。またその忠臣「武内宿禰」です。
前 壇 | 応神天皇(おうじんてんのう) | 作者:六代目玉屋庄兵衛 | 大正13年に名古屋にて購入。 上山2体より前壇1体の方が高かった(古老の話)。 |
上 山 | 武内宿禰(たけのうちのすくね) | ||
神功皇后(じんぐうこうごう) |
武雄神社にて奉納中 |
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前 壇:応神天皇 |
上 山:武内宿禰、神功皇后 |
応神天皇はほぼ確実に実在した最古の天皇です。
その治世は農地改良・馬・太刀・縫製・論語・典籍などをもたらし、技術の改革、文化の振興が行われ、
大和・河内地方の開発などを進め明宮(大隅宮)を造営。天皇は、大和朝廷の勢力を大いに発展させ、平和で実り豊かな世を築いたとされています。
神功皇后はお腹に応神天皇を宿したまま、三韓征伐を指揮、大臣の武内宿禰等の活躍によりこれを成功させ、その帰路応神天皇を出産。
その後皇后の異母兄が反乱を起こしたが、皇后はこれを平定、平和な世を築いたとされています。
また、神功皇后は遠征前に、勝負を占うため玉島里(佐賀県)の小川のほとりで岩の上に座り、飯粒を餌にして
「もし新羅に勝利するならば、川の魚よ釣り針を飲み込め」と祈願し、見事に鮎を釣り上げたといわれます。
上山後方の神功皇后はこの様を演じており、前方の武内宿禰は三韓征伐での活躍の様子を舞っているのです。
これらのことを室町時代に世阿弥元清が能楽として作られました。
前壇にて演じられるものが「弓八幡」、上山にて演じられるものが「金札」であります。
下門のからくり人形について |
3体とも特殊なからくり仕掛けはない。 |
前壇人形も含め3体全て糸からくりである |
3体とも観世流能楽の謡いに合わせて舞う。 |
神功皇后を題材にしたからくり人形を載せる山車はめずらしい。 |
からくり人形練習風景 | |||
からくり人形の練習には高さが3m程度必要とされます。 練習は、公民館では手狭なため、隣の生産組合作業所で行われます。 祭礼前を中心に行われますが、肌寒い夜もあり、お酒をいただきながらという場合もたまには有ります。 和やかな雰囲気のなかでも、糸を引きはじめれば真剣です! |
応神天皇は3人使い。<右手、頭・胴、左手> |
武内宿禰は3人使い。<左手、頭・胴、右手> |
神功皇后は2人使い。<右手、胴・左手> |
糸が切れました。裸にして、通し直し。 |
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クラブメンバーの顔がチラホラ散見されます。 |