八 幡 社
下門区にある八幡社は古くから区の氏神様として地区民から崇敬されて来ました。
鎮座地 | 愛知県知多郡武豊町字下門70番地 |
神社名 | 八幡社 |
祭 神 | 譽田別命(ホンダワケノミコト・應神天皇) |
祭 儀 | 例祭 毎年8月15日(旧暦)・中秋の名月 |
社 殿 | 本殿(流造 0.4坪)・覆殿(瓦葺2.6坪)・幄舎(瓦葺 1.9坪)・神門(瓦葺 間口5尺) 社務所兼公民館(67坪) |
垣 内 | 23.6坪 |
境内地 | 1,002.72坪 |
境内神社 | 秋葉社 (祭神 迦具土神(カグツチノカミ)) |
由 緒
八幡社の祀られた年月はあまりにも古くあきらかではありませんが、郷記に「當長尾建始若宮前ニ家数十六軒氏神八幡宮」と出ていることや、
境内池より石鍬が発見されたり、若宮に貝塚や古墳群が存在し、土師、須恵の土器など多数発見されていることや、
武雄神社、若宮に字金下(神奈備の下)字内鉋(神奈備の内ご神域の内)と云う萬葉の言葉(千二、三百年以前)が残されていることや、
和名鈔(千年前)に生路の塩の事が載っていますが、この生路の氏神の楠の木の古さが、
八幡社と同じ時代であることから、平安朝(千年前)かそれ以前の郷民によって祀られたものと考えられます。
承久の変(鎌倉時代中期)の後、岩田氏が本国山城国から当地に来て館を構え、戦国時代に入って長尾城(六万石)を築き(今の上 ケ、下門
を御城内御構内とし、字金下の城山を本丸とした。)、武雄神社(従三位の神階を有し国司所祭の礼を受け、本郷の氏神であった天王宮)を
城内並びに領内鎮護の社と崇めたので、武神であり城下の人々の信仰厚い八幡宮を累代篤く尊信して、
武雄神社(天王宮)から八幡社への御旅の神事が行われていたものであります。
永禄4年(桶狭間の戦いの翌年)時の長尾城主岩田左京亮安廣が長尾城を去った後、郷民により再び武雄神社が氏神と崇められるに及んで、
八幡社を元氏神と称し、武雄神社の境外摂社である長尾7宮の筆頭神社となったのであります。
慶長年間に行われた伊奈備前守の御険地にも当社の御境内四反一畝廿五歩が御除地になっています。
明暦萬治寛文の頃(三百余年前)尾張藩士大嶋四郎兵衛(百伍拾石)が領主として当地に任ぜられ下門に居住のみぎり、
武雄神社(天王宮)の御祭礼には、自から宮本講頭となり、神興を寄進し、長尾城主の裔孫岩田眞七郎(山車眞七車を寄附)
並に宮本総氏子中打揃って奉仕し武雄神社のお神興が六月十三日八幡社の潔斎殿(御旅所)へ御幸、
翌十四日 本宮である武雄神社に御還幸になったこと、この御祭礼が近辺無双の大祭礼であったことが、次の如く郷記に
「寛文以前大嶋殿居住ノ時節、大嶋四郎兵衛殿 岩田眞七郎殿並に宮本総氏子中打揃十三日(六月)試楽天王宮(武雄神社)神興、八幡
宮潔斎殿へ御旅、本楽十四日八幡宮天王宮両社御神前ニ於テ御神楽執行後、神興本宮(武雄神社)ヘ御還幸、氏神前ニ於テ御神楽執行、
相済候上、下向、近邉無双ノ大祭禮ニテ有シ由申傳ヘ、其ノ頃ノ神興ハ大嶋殿御寄進白木造リ杉ノ葉ヲ以ッテ屋根ヲ造ル古風ノ神興ニテ
有シ由祭車ハ岩田眞七郎殿寄附ニテ中古迄眞七車ト唱エ候由」
と記されています。
この御旅の神事は、地元の人々により新たに山車が造られた徳川中期頃から執り行われなくなったと伝えられています。
八幡社の御例祭は陰暦八月十五日の中秋の名月の日で、
この日には、昼は村芝居、打上花火、夜は御神前、御神燈、手筒、段物等の花火が奉納され、
近郷からの参拝者も多く高町も出て身動も出来ぬ盛大なものでした。
昭和52年9月25日
八幡社宮司 岩 田 重 春
旧公民館と |
新公民館(H25/3/17竣工)と |